102.選んだ道へ

   夜が確かに明けた朝。エアーは借りうけている部屋で、各所の報告書を読んでいた。
 部屋の外から聞こえる音は相変わらず穏やかで、優しさに満ちていて、起き出した孤児たちの声が聞こえ始めた。
 ぱたぱた、と小さな足音が近づいて止まったのを聞きとめて、エアーは報告書から目を離した。開けっ放しにしてある部屋の入口に、少し隠れるようにしてノワールがいる。
「どうした?」
 問えば、ひょっこりと顔を出したノワールが部屋に入ってくる。ぱたぱたと走ってエアーの足元まで無言でくると、裾を少しひっぱった。
「おはよう」
「あぁ、おはよう」
 ぽんぽん、と軽くノワールの頭をなでるとエアーの目線は報告書に戻る。二枚の報告書をめくったり戻したりして、机の真ん中にはファルカ周辺の地図。
 ノワールは首を伸ばしてエアーの顔色を覗いた。
「難しいのか?」
「いや……」
 ノワールの位置からは机の上は見えないし、報告書も読める位置にない。ノワールはエアーの足をちょっと引っ張る。
「手伝うぞ。何でも言え」
 報告書から再び目を離してエアーはノワールを見下ろした。ノワールに表情はあまり見えなかったけれど、不安がうかがえる。ノワールは少しだけ首を傾げた。
「外に行けるようにしてくれるんだろ? 手伝うぞ」
「そうだな」
 なら、とエアーは報告書を机の上に置いてノワールを見下ろした。
「お前のユエリア姉さんを守ってろ。解決するまでこれから外はさらに危険になる。お前らを守る余裕があるとは限らない。だからお前が守ってみせろ。できるか?」
「ん」
 ノワールはむしろ嬉々として頷いた。幼いというのになかなか力強い肯定だ。
「よし」
 本当に少しだけ、微かにエアーは笑顔を浮かべた。だがすぐに無理にかき消す。ノワールの頭に手を置いて、少しだけくしゃっと音を立てて頭を撫でて、視線を机に戻す。
「朝食を取ってきてくれるか? 今仕事から離れたくないんだ」
「ん」
 任せろと言わんばかりにノワールが頷いて踵を返した。ぱたぱたと音を立てて、小さな足音が遠ざかる。
 完全に聞こえなくなったのを見計らってエアーは部屋の出入り口を見やった。ノワールがいないことを確認して、鋭く出入り口に向かって声をかける。ノワールと話していた間のような微かにでも人間味のある口調ではない、突き放すような口調。
「言いたいことがあるなら言え」
 出入り口から足音を消して、気配を消して、そっと現れたのはワネック・アスキだ。ワネックは困ったような笑顔を指先でかく。
「おはようございます、隊長」
「あぁ、おはよう。それで?」
「………」
 ワネックは困った笑顔のまま、少ししてから部屋の中に入ってきた。開け放しのドアをゆっくりと閉めてから、エアーに肩を竦めて見せる。
「イオナが泣いてましたなあ、僕の顔を見たら逃げるみたいに走って行って……何をおっしゃったんですか?」
 ワネックの口調は至極ゆったりとしていた。エアーはワネックに正面から向き合わなかった。ぷいと顔を背けて、「別に」と。
「別れを言っただけだ」
 エアーの口調は極淡々と。感情一つも込めなかった。顔色も後ろから見るだけでは分からない。眉ひとつ動かさなかっただろうか、ワネックは少し不安に思う。
「“さようなら”ですか?」
 ワネックがゆったりといえば、エアーが「ああ」と肯定する。目線は机の上から動かしていない。
「それは、我々にとってあんまり言いたくない言葉だなあ。君にも――隊長にもお教えしたことがあると思っていましたが」
「そうだな」
「……さようなら、ですか」
 ワネックは振り向いてこないエアーの背中を見た。目を細めて、無理に笑う。
「何だ。言いたいことがあるなら言え。責めたければ責めろ。だが俺が言った言葉が変えられるわけじゃない」
「そのとおりです」
「本当はお前にも言いたいぐらいだ。ホルンにもな」
 ワネックが答えずに間をおいたことで、エアーはワネックの表情を察してしまった。
 きっと困ったように笑っているだけなんだなと。昔からだ。困らせるとそう笑う。
「あの頃、」
 自分の口から不意として出た言葉に、エアーは息を呑んだ。
 あの頃、じゃない。あの頃から。
 もしも自分が、もっと馬鹿じゃなかったら。弱虫じゃなかったら。
 もしかしたら今もまだ光の中で生きていたのかも。
「……いや」
 くだらない、とエアーは思った。
 過ぎ去ったことに“もしも”なんてもの当てはめても苦しいだけだ。悲しいだけだ。そんな感情は邪魔なだけだ。
「なんでもない」
 エアーは目を閉じて、感情に蓋をした。
「そうですか」
 ワネックはいつも通りに答えた。
「隊長」
 隊長、という響き。
「ご指示を」
「あぁ、そうだな」
 エアーは目を開けた。開けて、立ちあがり、振り返りながら傍の剣を持つ。
「俺は出るぞ。マーカー・クレイアンを連れていく。ワネックはホルンとライフを押さえて、ここにいろ。不服だろうが、ピーク・レーグンの指示に従え」
「はい」
 ワネックが軽く敬礼を示した。今のエアーに対するものだ。
「それと、ワネック」
「はい」
 ライフに渡した外套とは別の外套を羽織りながら、エアーは視線を少し外に動かした。外套は昨日まで来ていた黒いものではない、どちらかといえば白に近い色だ。実を言えば、こちらの方が幾分か暖かい構造をしていた。
「ノワールが朝食を持ってくる。上手くごまかして食べておいてくれ」
 ワネックは破顔した。
「はい。了解しました、隊長」
 ぺこりとワネックが頭を下げた。ワネックの横を大股で――廊下に出ると軽く駆け足でエアーは進んだ。階段の踊り場の窓を開けて人が少ない場所に飛び降りる。途中で魔道士たちに邪魔をされたくないから一階は通りたくない。
(好きにやる)
 今朝ピーク・レーグンに宣言した。お前の好きなようにさせてばかりいるのは面倒だ。俺が止めてやると。
 容認したピークの腹の見えなさ。終わった時に浴びるだろう溜息の量、批難。そんなものは最初からどうでもいいはずだったものだ。迷いが犠牲者を増やすのだ。消えぬ傷、癒えぬ傷。後悔、遺恨、悲嘆。
(……きっと、俺は光にはなれない)
 慈しみと暖かさと、愛しみに満ちた病院をエアーは振り返り――だがすぐに背を向けて歩き出した。
(光の中でも生きていけない。なら、光が強いほど色濃く見える、影になってやる。お前が俺たちの負担を減らそうとした、それを利用してやる。カタン・ガータージ、お前が)
 王城にいるだろうカタン・ガータージを思い浮かべた。黒い衣装、黒い長髪、黒い瞳。にも関わらず何故か眩しく感じた。
(どんなに光の中に誘おうとしても、俺は拒否する。ぬるい光の中で何かを失くしていくのはもう、ごめんだ)
 光の中は居心地がいいけれど、そもそも。
(そもそもお前と俺とは、本当に気が合わないだろうが)
 胸中で笑った。顔には出さなかった。目の前にマーカー・クレイアンがいたから。
 マーカーは少し暗い顔で馬を引いていて、指示通りに食糧と水を数日分積んでいた。
「いくぞ、マーカー」
「はい。マーカー・クレイアン・サー、ついて行きます」
「あぁ。だが、お前は手を出すなよ」
「隊長が危険と思われた時は手を出させていただきます。俺でも壁にでもなりますから」
「俺より先に死ぬ気か? 馬鹿か」
 エアーは鼻で笑った。愛馬にひょいと乗ると、鼻面を返しついでに眼下のマーカーを睨みつけた。
「お前は必ず、俺より一秒でも長く生きろ。俺を守って死ぬのは禁止する。仇を討とうとするのもだ。俺が死んだら、お前は生きろ」
 マーカーはわけもわからず顔をしかめた。しかめながらも馬に跨る。マーカーが馬に跨るとエアーはマーカーを待たずに馬を歩かせ始めた。
「必ずだ。分かったか?」
「………」
「分からなかったらもう一度言ってやる。厳命だ」
「命令なら、従います」
「ああ」
 エアーは一間、おいた。空気を吸うような間が一つ空いた後に、横目でマーカーを見やる。
「命令でなくても従え、これだけはな」
「……わかりました」
 マーカーはまだ不服そうだ。不服そうなマーカーを一瞥して、エアーは軽く馬の腹を叩いた。朝のファルカを駆け抜ける。マーカーが必死でついてくるのに、エアーは少し笑った。
  
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