100.約束と恐怖と、境界線と

   エアーたちが入った食堂の中に、人は少なかった。常連らしい人間が店主とたまに何かを離していて、店主はにこやかに返事する。ちなみにさきほどその常連の客がエアーを見つけて『高等兵士』だと騒いだので、騒ぎが収まるまで少し時間を要してしまった。
 原因は、昨日来たホルンだった。
 原因を聞いて、エアーは内心しかたがないかと思った。彼女の大食いっぷりは知っているし、彼女は自分より努力して強い人間が何より好きだった。“負けられない”と思うかららしい。
 店主がエアーの分の食事を持ってきて「騒いですまなかったね」と苦笑を浮かべるのに「かまわない」と答えたエアーの顔。確かに怒ってはいないだろうが、愛想の一つもない。
 食堂の端の席で斜め前に座ったユエリアはエアーの表情を覗きながら「どうしてなんだろう」と思う。一生懸命笑わないようにしていたり、わざと不機嫌そうにしていたり。なんとなくふりだけなんだろうなと、なんとなく分かってきたからよけいに。
 少し難しい顔をしてユエリアが悩んでいると、ふとエアーがユエリアを見た。
「なんですか?」
 少し眉を上げた、作ったような無表情。ユエリアは「いいえっ」と自分の昼食に入っていた肉団子をぽいっと口に入れた。飲みこんでから、まだ心配そうに――とはいってもほとんど表情は変わっていなかったけれど――覗いているエアーを見やってわざと不機嫌そうにしてみせた。ちなみにノワールはユエリアの横で、大き過ぎる机に四苦八苦しながらも一生懸命昼食のポアルを食べていた。――が、ふとその手が止まった。
「なんでもありません」
「いや……何でもないように見えませんが」
「なんでもないです。もし気になるようでしたら、私より先に完食したら教えてあげます」
「わかりました。食べますから、機嫌直してください。俺がノワールに睨まれます」
 ――その言い草。ユエリアは少し笑ってしまった。事実ノワールを見やるとエアーを睨んでいて、エアーは少し慌ててパンをちぎっていた。なんだか普通すぎて不思議。高等兵士なんだって思おうと思っているのに、高等兵士なんかじゃないように見えてくる。
「ふふっ」
「?」
 思わず笑い出してしまったユエリアを、エアーが訝って見る。ユエリアが笑ったのでノワールは満足らしい。自分のポワルにまた夢中になった。
「なんですか?」
「いえ、なんだかエアーさんも普通の人間なんだなぁって思ったら、無償に可笑しくて」
 エアーがぽかんとした。その表情もどうしてか普通過ぎる――ように思えるのは、エアーの表情を読めるようになったユエリアならではである。
「……そうですね。俺も、」
 ユエリアを見、だがすぐに視線をそらして窓の外をエアーは見やる。
「あんまり普通で、可笑しくて」
 ふとしてエアーが落とすように笑った。幸せそうで、悲しそうな笑顔。
「自分が高等兵士なことを、少し忘れそうになります」
 呟くような声量。不思議とユエリアは言葉を失ってエアーの顔を見つめた。こんな時間は幻想だ、すぐになくなる時間だと、言われている気がしたから。
 胸中でかぶりを振ってユエリアは慌てて息を吸った。何かを言おうとして、取り合えず声を上げる。
「あのっ!」
 思わず出た言葉が妙に大きくてユエリアは慌てた。少しだけ口に手を当てて、苦笑する。窓の外を見やっていたエアーがユエリアに視線を戻す。
「なんですか?」
 いつも通りの不機嫌そうな返答。ユエリアが慌てたことなどお構いなし。ユエリアは自分の顔が赤くなっているのを自覚した。自覚して、余計慌ててしまった。
「あ、ああああのっ! 私もう少しで食べ終わりますけどっ」
「あ」
 本当に一瞬だけ、エアーがぎくりとした表情になった。自分の皿を見やって顔を歪めた。――ほとんど残っていたから。
 エアーの表情を読み取るのが上手くなったユエリアである。表情を見て、ようやく安心したような笑顔になった。
「少し待ってあげますから、食べてください」
 はあ、とため息をついてエアーが食器を持ち直す。カコンと少し乱暴にスープを掬う。
「そうします」
「はい。それで……あの。食べて、」
 必死なって何かを伝えようとユエリアは思った。“何か”が何かなんて本当は分かっていて、伝えたいことはもっと別なことなんだろうなって思っていたけれど、ごまかすように“何か”を探すような言葉をエアーにかける。
「長生きしてください、ね」
 エアーは少しだけユエリアを見やっただけ。傍目に表情はない。ユエリアは苦笑した。
「戦争だって、いつまで続くものじゃないと思いますし。エアーさんのこと、大切に思う人のためにも、元気に生きてくださいね」
 エアーが目を逸らして、手を止めた。小さな声で「はい」と答えて、食事を続ける。その仕草が無性に、ユエリアには悲しかった。
「約束、ですよ?」
「善処します」
 ユエリアも自分の皿に目を落とした。エアーを見ていられなかった。――話せば話すほど、距離が遠のいて行く気がしたから。近づこうとすればするほど、ずっと遠くの場所に行ってしまうような。
(馬鹿だなぁ私……なんでがっかりしてるんだろう)
 もともと話すことだって無理な存在で、たまたま助けてもらってたまたま彼の用事が居候していた病院にあっただけ。こんなふうに話すことだって幸運に思わなきゃいけないのに。
「ユエ姉さん」
 ユエリアの服の袖をひっぱってノワールがユエリアを見上げた。じっと見上げる双眸。
「ユエ姉さんは俺が護るからな」
 ユエリアはノワールの顔を見て思わず笑顔になった。ノワールの頭を撫でて「うん」と。少し救われた気がした。
「ありがとう。よろしくね、ノワール」
「ん」
 ユエリアに頭を撫でられてノワールは満足そうだ。二人の様子を見ていたエアーがくすりと小さく笑ったのにユエリアは気がついて、余計に苦しく思う。
 まるで窓から見られているだけのようで――。


 からん、と店の鳴り呼が音をたてた。いらしゃーいと店主がにこやかに挨拶して、やってきた人物を見てさらに笑顔になる。
「やあ、今日も来てくれたのかい!」
「うん。こんにちわ、おじさん」
 笑顔で答えたのはホルン・ノピト。一度病院に寄って出かけたことを伝えられ、目撃情報を基に追ってきた。その収集と処理、実行能力は目を張る。続けて入ってきたのは苦笑しながら疲れて切っているマーカー・クレイアンだ。
「今日は仕事なんだ。隊長来てるでしょ」
「あぁ、よくわかったね。あっちだよ」
 店主が笑顔でエアーたちを指差した。
 指差した先をホルンとマーカーが見やれば、エアーはすでにホルンを見つけていて、いつもに増して不機嫌そうに眉間に皺を寄せて腕を組んでいた。
 エアーが「何の用だ」と問いかけて口を開いた瞬間である。
 ホルンの表情が、刹那に消えた。
「?」
 表すならその表情は“白”だ。いつも表情豊かにするホルンにとってはその表情が稀有だからこそ異様。
「どうした」
 問いながら立ちあがって、エアー。エアーの声にぴくりとホルンが反応する。反応してゆっくりと手が動いた。
「『この間のお返し』」
 まるで棒読みだ。言ったかと思うと、ホルンが唐突に素早く動いた。剣の下に隠し持っていたナイフを鋭く抜いて、突進するように突き出した。
 その迫力こそ“金色の獅子”と呼ばれた所以。だがエアーは微かに顔を歪めただけ。少し前に出て、少し身を寄せてホルンのナイフを避けた。
「この間?」
 エアーの問いに、ホルンの返答はない。エアーのすぐ横で立ち止まってホルンは鋭くエアーを見上げた。エアーもホルンを見下ろして、すぐに意識を切り替える。――ホルンから敵意も殺意も感じなかったけれど、攻撃を受けているという事実だけで、対峙することに決めた。
 エアーがホルンを睨んだ直後、ホルンが再び鋭くナイフを突き出した。エアーは手を伸ばしてホルンの手首を掴む。――だが、威力を微かに緩めただけ、軌道を少し逸らしただけだ。
 まるで敢えて受けたよう。ホルンがナイフを握る手に手は重なったまま、エアーの腹に深々と突き刺さった。
 店の中からひっと息を吸う声が聞こえた。幸い誰も悲鳴を上げなかったけれど、逆に店の中は静まり返ってしまった。
「ホルン」
 エアーはホルンの手に自分の手を重ねたまま、頭の上から名を呼んだ。ナイフを握るホルンの手を、力の限りに掴んだまま。微かに苦痛を表したような歪みが、表情に現れた。
「ホルン・ノピト」
 ホルンの肩がびくりと揺れた。エアーを刺した状態で硬直していたホルンの体が、微かに震え始める。
 エアーはホルンを見下ろして、確かに顔を歪めた。
「ホルン、ノピト!」
「っ」
 息を呑んで、ホルンが恐る恐る顔を上げた。恐怖で引きつった顔でエアーの顔を見て、震える口を、ゆっくりと開けた。
「え、エアー……っ」
「どうした」
 答えた、エアーの声はいつもとかわりない。ホルンの声はまるでかき消えそうなほどか細い。
「何がっ……何を……?」
「だから、どうした」
「わ……私が、さし、た……?」
「あぁ」
「ご、ごめ……っ」
「あぁ」
 ホルンの両目から涙があふれ出た。
「少しぐらい、痛がってよぉ」
「そうだな」
 だがやはり平生と、エアーはホルンの手を離した。エアーが手を離すと、ホルンの手には赤い跡が残っていた。ホルンの手も力なくナイフから離れて、ホルンはすとんと床に座り込んだ。仰ぐようにエアーを見上げて、「ごめんね」と繰り返す。
「いい、死ぬような傷じゃない」
 エアーは答えて、片手で軽くホルンの頭に手を伸ばした。ホルンが避けるようにうつむいて、エアーは溜息を一つ、腹に刺さったナイフを少し抜きにくそうに抜いて、店の中をある程度見渡した。
 店の中の人、全てがこちらを見ていた。それぞれの面持ちで見守る人々。
 その顔に映るほとんどは恐怖だ。――見慣れた顔だな、とエアーは思う。いつでもどこでも恐怖と――悲しみとを見てきた。
 エアーは表向き表情を変えず、改めて店の端の席に座るユエリアとノワールの二人を見た。
 皆と一緒、恐怖と悲しみを湛えた瞳でこっちを見つめているユエリアの顔と、ユエリアに抱きかかえられて頭を押さえられているノワール。
 ねぇやっぱり生きる場所が違うんですよと、エアーは言葉に出さなかった。そんな風に気軽にしゃべるのも辞めたし、口に出せば余計に悲しくなる気がしていたから。
 ただ、つかの間の平穏な時間をありがとうと、感謝の気持ちを込めて少しだけ頭を下げて踵を返した。刺された場所を片手で押えて、踵を返した先にいるマーカー・クレイアン・サーを鋭く見た。押さえた傷からぽたりぽたりと血が溢れ出てくる。平生とはしているけれど、傷を見れば何事もないような表情も強がりのように見えてくる。
「マーカー・クレイアン」
 マーカーは呼ばれてはっとして顔を上げた。
「は、はい! マーカー・クレイアン・サーここにいます」
「あぁ。後は任せた。俺はホルンと一度病院に戻る。俺が頼まれたお使いもお前に任す」
「は……はい、お使い、ですか?」
「あぁ。内容は俺の頭にはない。ユエリアさんとノワールに訊いて、夕方ごろまで一緒に病院に戻ってこい。くれぐれも無事にだそうだ」
「はい、わかりました。しかし、隊長」
「何だ?」
「仮にも彼女は今、貴方に刃を向けました。二人きりにするのは……」
「そうか」
 カツン、と木の床が音をたてた。エアーが大きく前に一歩足を振りだして歩き出した音だ。
「せめてホルンに敵うようになってからそういう心配をしろ。いや――」
 入口の前で立ち止まって少しだけ振り向いて、エアーは少し鼻を鳴らした。
「敵うと、実力を示してから堂々と心配しろ。他に遠慮して実力をだそうとしない、お前が心配だと? 笑わせる」
 全く可笑しくもなさそうな表情で言って、エアーの視線はホルンに落ちた。睨む。
「行くぞ。安心しろ、二度とお前が向かって来たなら、次はない」
 ホルンが顔を上げてエアーを見た。エアーはホルンの顔を少し見てから、改めて入口に向かって――ふとした瞬間に足から力が抜けて膝をついた。
 途端店の中がわっと騒がしくなって、わらわらとエアーに人が集まるのを、ユエリアとノワールは外側から眺めて、「ねぇ」とユエリアがノワールに語りかける。
「やっぱり、エアーさんも、普通の人、なんだよね?」
「ん」
 ノワールが無造作に片手を上げてユエリアのほっぺを掴んだ。びっくりして目を丸くしてユエリアがノワールを見下ろすのに、ノワールは無表情のまま小さく頷いた。
「やっぱりエアーのよりユエねえさんのほっぺのほうがいい」
「え?」
 きょとんとして、次いでユエリアは笑いだした。笑顔でユエリアもノワールのほっぺを少しつまんで「うん」と。
「ねえさんもノワールのほっぺ大好き」
「ん」
 こくんと頷いて、ノワールが椅子から飛び降りた。人ごみの中からゆっくりと起き上ったエアーに走り寄って、足元でエアーを見上げた。エアーはマーカーの肩を借りながら立ちあがっていて、顔には冷や汗が浮かんでいたけれど、何事もないような表情でノワールを見下ろした。
「エアー、約束、護れよ」
 エアーは苦笑した。まっすぐに見上げてくる双眸を見下ろして、少し頷く。
「努力する」
「絶対だぞ」
「あぁ、絶対に外に出られるようにはする。それ以上は努力する程度の約束ならな」
「努力しろ」
「分かってる。それまでお前はユエリア姉さんでも護ってろ」
「ん」
 こくんと頷いてノワールが足元から離れた。
 ノワールが足元から離れたのを確認して、エアーはマーカーから離れて、自分の足で歩きだす。足取りは確かにぎこちなかったけれど、それでも無理矢理に。
 無理矢理に、前を、睨みつけて。


「マーカー・クレイアン・サー。後は、任せた」
  
Back←//押していただけたら喜び。//→To be NextChapter. 
inserted by FC2 system